土偶裸摩具羅 -Dogra Magra-

人生は死ぬまでの悪ふざけ

 というわけで日付的に今日はもう引越し。
 洗濯機と冷蔵庫の前準備は完了。
 部屋の中と廊下側のいくつか、見える範囲でのものはだいたい解体して運びやすいようにしておいた。
 期待と夢に胸躍らせて(そうでもない)住み始めた秋葉原だったけど、家賃が高いばかりで、メリットは「飲み会から帰るとき、とても楽」くらいのことだったね。
 近場でやってる楽しい情報が入ってはくるんだけど、物を溜め込まない生活を心がけ始めたら、途端にこんな気分になったね。

 僕はオタクだから、当然物を消費して生きていく運命なのだけれど(なぜなら自分自身が物語になることができず、他の大きな物語の中に身を委ねることでしか自分自身の相対的な位置を確認できないから)、それでも物は溜め込まないように心がけている。
 死ぬときは全部なくなるから、などの崇高な思想に基づいた理由ではなくて、物が余計にあると思考の邪魔になるから。散らかったデスクで取り組むよりも、ほどよく片付いたデスクのほうが集中できるってやつだ。
 買うものもひとつひとつ吟味して、本当に必要なのか、前に同じようなものを持っていなかったか、それで代替できないか、それを消費してからではダメなのか……そういうことを考えてもいいと思っている。
 幸い、今は本が電子データになり始めている。あと、個人的に裁断機とドキュメントスキャナーを使って本をデータ化して捨てている。(積ん読になってしまったものも、後で読む気があるならデータ化する)
 自分の性分と物は切り離せない。けれども、その量と折り合いをつけていってもいい。そう思っている。
 物をいくらでも溜め込める(仮定)実家には住めない。(正確には、実家は勤務地からは離れすぎているので、生活の拠点を実家には置けない)
 本当のところ、実家に戻ったときに見たあまりの(親の)物の多さに、内心呆れたんだよね。いらない物を溜めるなら、最初から買わなければいいのに、って。
 買う行為の意味も、他の人が美しく整った蔵書整理をして最高の図書館(俺の城)を作るのなら、それもいいと思う。他人のやり方は他人の。
 僕は僕のおもしろいやり方でやってみようと思っている。
 

 ここまでじゃないけど、こんなのもおもしろいと思う。