土偶裸摩具羅 -Dogra Magra-

人生は死ぬまでの悪ふざけ

笑ってくれ。

台風が通り過ぎると言われて、閉じ込もっていた週末

その最後の日曜日に、好きな子と会って食事できた

それだけで人生の幾ばくかの重さが、軽くなったような気がしたんだ。

そういう、心因性の効果について、否定していたわけではないし、そういうものがあると知ってはいた。

だけど、それは、俺とは関係のないものだと思っていた。

俺は、今さらになって、自分自身が、そういうものの影響下にあることに戸惑っている。

そうであるはずなのは分かっているけど、それは他人事だと思っていた。

なんだこれは…?

夜毎 睦言 世迷言

不思議なものだ。

よほど「俺は孤独の内に死ぬのだ」と信じていた魂が、今は人が振ってくれる手を見て、この世のよすがを信じかけているのだから。

これが束の間の幻でなければいいが。

 

小難しい言い回しを、わざとしているつもりはない。

その意図するところの本質を繋いでいけば、正直な感情の吐露がはっきりとする。

煙に巻きたいわけではない。

ただ、その正直なところを平易な言葉で書いて、「あはは、こいつ最低なやつだな」と、露呈したくないだけなんだ。

自分は、思ったよりも、文学や、哲学や、思考が先に来るよりも、俗物的で、生物的で、性欲に逆らえなかった。

そういう実感がある。

 

でも、それでいいと思っている。

たぶん、自分が一介の生物であることを遊離して、思考だけの存在になりきれなかった、それだけのことだ。

俗世など、どうでもいいと思ってきた。

合理だけで、全ては説明できると思っていた。

そんなんじゃなかった。

いや、そういう一面も、場所によってはあるだろう。

しかし、理論は感情と相反する。

そういうことを、今さらになって思い知らされた。

俺はそういう、馬鹿な魂だ。

 

今はただ、愚かな自分でいるのが心地よい。

何度こうしたことがあったか分からない。

人生には、何度も、それを再捉え直し(リフレーミング)する機会がある。

いや、必要ない場合もある。必要ないほうがいい。そのほうが絶対に幸せだ。

しかし、頻繁にそうせざるを得ない生き方を選んでしまった。だから、これはおれに一生ついて回る宿痾になった。

改宗するというのは悪ではない。調べに調べて、それが妥当な論理だと思って、自分で納得したなら、そういう考え方で生きていくのも美徳だと思う。そういう風に、いつも心を他の意見に広く開いているのは、とても尊敬できる生き方だ。

おれは今まで、おれは暗鬱たる生き方で一生を終えるものだと思っていた。いや、今でも、捉えようによっては十分、倫理的ではないし、後ろ暗いまま生きるだろう。

もしかしたら今、おれは、見せかけの?光の中で生きている。

しかし、今までおれを光の下で生きよと育ててくれた恩に背くわけにはいかない。

おれは、いま、自分の生きている生き方そのものが、どうなるか分かっていない。不安定で綱渡りなもので、なんとなく、生かされているような気がしている。

そういう不確定な生き方も、たぶんきっと悪くない。常道を外れたときから、覚悟をしておくべきだった。おれにはその覚悟がなかったのだろう。とんだ甘ったれだ。

だから、今は、もう少し覚悟をして生きよう。どんな絶望が、突然、必然、目の前に振って来ようとも。

秋のとば口に立って、過去と未来のことを考えていた。

自分を規定するものは何なのか。何だと自分は思っているのかについて。

 

結論から言うと、自分を自分たらしめるものは、自分の意識でしかない。

自分というものを規定するのは、究極的には自分の世界を捉える意識以外にない。

(もちろん、自分を取り巻く外部の要素が意識を変えうる原因になるという議論は当然ある)

それ以外の、外因的だと自分が思っているもの、たとえば、他者評価だとか、他人が自分をどう思っているかと自分が考えているものは、部分的に真実のこともあるだろうけども、自分の意識が作り出した妄想(あるいは、こうあってほしいという願望)である可能性はないか。

最終的に帰結するのは、自分がどう感じて、どう行動するか(そしてその結果、どう朽ちていくか)以外にはありえない。

なんとなくではあるものの、自分と世界との関わりは、もしかして単純なのかもしれないし、いたずらに複雑に考えるのも、それはそれでまた楽しいと思った。

 

かんたんに言うと、おれが思うほど周囲の事情がおれを規定しているわけではないし、おれが思うほど世界は絶望ばかりではないし、希望にあふれてもいないということだ。

 

思うに、自分の意識と外部の関係が確定するのは以下の要因しかない。

ひとつめは、経験。

ふたつめは、契約。

「たしかにこういうことがあった、起こった、やった」という経験。

「こうする、こういうふうにあることにする」という契約。

これらを弱い言葉で言い換えると、記憶と約束となる。

でも、記憶も約束も、おれはよく忘れる。

だから、もっと強い単語で書いた。

 

ひるがえっておれは、無感動の砂漠に取り残されている。

聡明な読者諸氏は、おれがなぜこのような(ばかみたいな)ことを考えるに至ったのか、なんとなく分かったかもしれない。分からなくてもOK。なぜなら迂遠に書いているから。

おれの捉える世界が歪みそうで、おれは必死でそれに説明をつけたくて、こうして書いている。

おれはいつも冷静でない。おれは自分の感情に時間をおいて考えられるほど余裕をもった人間ではない。人間ができていない。生き急いでいるし、短絡的だ。

だけど、それを吐き出せる場所を見つけられるほど上手に世の中を生きてこられなかった。

こうして書くことでしか、自分を落ち着ける術を知らない。

 

 

少し前までは暑かったけれど、少し先はもう寒くなる予感がしている。

季節の変わり目は、風邪を引きやすい。

見渡す限りの茫漠たる無感動という砂の山の中に

一条のうっすらとした悲しみの河が流れている。

 

心象風景を表すなら、きっとそうなんだろうけど、ふと、別の考えが頭をよぎった。

事態を近視眼的に見過ぎてやしないか。

もっと大きなスケールで捉えることはできないか。

あまりに生き急いでいやしないか。

 

結論を出すにはあまりに性急すぎる。

そういうのは自分の悪い癖だ。

誰しも、勢いだとか、気の迷いだとか、その場で正常に最適な判断ができないということはあるだろう。

そこに対して、是だの非だのという判断を下すのは、人の一面だけを見て、それ以外の、その場では出せなかった良い面を見ずにして早まった判断をしてしまうような短絡的な思考かもしれない。

もっと、余裕をもった時間軸で判断していくべきかもしれない。そうしているうちに、俺が肉体的に衰えていくかもしれない。

それでも、余裕のない心は全てを悪化させる。

そう信じている。

(心は、それをも否定する可能性を理解している)

 

まあ、明日死ぬんだけども。