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仕事の話。
自分の身の程を知るというか。
自分がやりたいと思っていることと、やれることは違うのだな、と。
やりたいことのできる空間は、自分が大切にされて生きられる空間ではないこともある。
ならば、やれることの範囲内である程度安穏に生き、その上でやりたいことを趣味でやるのがいい。
そういうことを、言葉の概念としてではなく、実感として理解した。
憧れと実力とは別のものだと、よーく思い知らなければならない。
自分の可能性は無限ではない。それは加齢が原因ではなく、身に持って育った性質が、ある程度自分の可能性を限定しているのだ。
それとうまく付き合っていくことが、健やかに生きる上で大切なのかもしれない。
職についてのメモ
- 不幸せでないこと:
自分の能力・存在を否定されないこと
- 幸せであること:
自分の自由な限りの能力で生きられること
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皆さんご存知のとおり、僕はよく銭湯に行きます。
そこでは様々な体格の人を目にすることができるのです。
地域密着の銭湯では、だいたいおじいさんだったり、新しくてきれいな一等地の銭湯では、若いお兄さんだったり、また、土日祝日はお子さんを連れたお父さんに出会うこともあります。
とある銭湯では、ロン毛にロンヒゲ、体がガリッガリのヒッピーみたいな兄さんもいました。イカスー
まあそれで、自分の体格にも気を配ろうと思ったわけです。
僕は身長が低いので、適正体重が56.2だか.4だかkgだそうなのです。
最近は銭湯でサウナに入ったりもするせいか、銭湯備え付けの体重計が示す値は、ガンガン減り始めました(適正を下回るほどに)。
それと、食べる量も減らしました。
農家の息子なせいか、出されたものは食べきらないとならない性分だったのですが、待ちの姿勢だと、つい多めのものが提供されるので、少しのものしか注文しない、もしくは先に減らして提供してもらう、攻めの姿勢にしました。
あとは……週に1度のジムなんか、大した体づくりにはならないと思います。
一回のトレーニングで辛くなる許容量なんてたかが知れているので、あれは辛い回数を増やさなければならないのです。
家でもやります。
そこで効いてくるのが、このダイエット的な方向性。
体にエネルギーが足りないと、トレーニングにしてもサウナなんかの疑似湯当たりにしても、死にそうになりますね。
自分は何の修行をしているのか、たまに不思議になります。
それでも、渇きに渇いた体に水分を戻すときの快感が忘れられなくて、僕はまた銭湯に行くのです。
若干、目的を錯誤した気狂い感。
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東京を離れないことにはなった。
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先週の木曜日の稽古で痛めた左足の青あざがほぼ治り(あまり痛くなくなり)、右足首の打ち身の痛みも歩くのに支障がないくらいになったので、喜び勇んで歩いてきた。
先週の土日はこの足の痛みが酷くて、出かけるのが億劫になるほどだった。
ここ1週間前あたりからやけにインターネットの光回線が遅いので問い合わせたら、どうもこの使っている回線が混雑しているらしい。
情報を寄せてくれた知人によると、プロバイダーとNTTとの共同回線は、特に回線が細いという。
遅くてもいいけど、接続がしっかり確立して、ページをきちんと読み込んでくれないのはいけない。
ということで、2.5Mbpsしか出ない光回線からADSLに替えることにした。
最近、生き方について考えている。
食い扶持を稼ぐための仕事には、無感情で取り組んでいい。仕事は人生ではない。賃金の多寡や拘束時間の長短はあれど、そこに折り合いがつけられるのであれば続ければいいだろう。
それとは別に、では自分の過ごす生活はどのようにあるべきか。
24時間から仕事に関する部分を純粋に差し引いてみて、残るのが自分の生活だ。
そこを、東京で、この賃金で、この自由時間で過ごすことを選んで、自分はここにいる。
それが規定のものであり、その考え方から自由になることはできないのか?
当たり前にこのままだと思っている、思い込んでいるだけで、まったく別の生き方があるのではないか。
そう思って、仕事から、住む場所から、すべて入れ替えることを検討している。
もちろん、それが自分の見当違いの妄想で、実際にはひどく困難があるのかもしれない。
なので、そのシミュレートができる体験のようなものに参加できるよう、手配している。
おれがここで悶々と悩む必要など、もしかしたらまるで無いのかもしれないのだ。
という話は、今のところ本当に誰にも話していないので、ここを読んでくれたあなたしか知らない。
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先月1か月の間で3回も、酸性泉に行った。
おすすめは草津温泉。
遠くてもいいなら、釧路の川湯温泉。
それ以外にもひとつ行ってみたけど、泉質で言えば上の2つが最高だった。
もうちょっと他にも行けるなら行こうと思っている。
8月にはゲリラ豪雨で携帯電話が使えなくなり、一時的に代替機を用意する必要があった。
そして先日、財布(硬貨を入れるタイプのやつ:ウォレットでなくパースのほう)を紛失してしまった。
硬貨を都合良く収納できて、しかも取り出しやすい入れものなんて、財布以外にない。
財布がなくなるというだけでも大変な不便を味わった。
自分がいくら不必要なものを排除して生活しているといっても、たとえば生活必需品が突如なくなってしまえば、それだけで生活が立ち行かなくなる。
ということを強く実感させられた。
だから、冗長性を確保しておくということは、ある意味で重要だ。
先日実家に帰ったときに、以前使っていた硬貨を入れる財布がしまってあったのを確認したばかりだったのだ。
あれさえ持ってきておけば、こんな不便は感じなかったのだ。
すぐに代替物は用意した。
なくしたと思しき場所には、発見の際には知らせてくれるよう連絡もつけた。
買い物のときには、いつも金額を整えて出すタイプだから、財布の中には1000円以上は入っていなかった……のだけれど。
できればなくしたくはなかったよ。