土偶裸摩具羅 -Dogra Magra-

人生は死ぬまでの悪ふざけ

 会社で感じたことなんか、こんなところやTwitterに書くべきではないし、一瞬で過ぎ行くどうでもよい心のさざ波など、ましてそうだろう。
 なんて思うから、ここの更新内容にするほどのことも見つからないし、Twitterリツイートマシンと化している。
 
 ニコニコ動画RTA(リアルタイムアタック:ゲームソフトを可能な限り急いで攻略することに人力で挑戦するもの)の動画を見ていると、最近のゲームは(ものにもよるけど)複雑だと感じる。
 シリーズが進んでいくに連れ、要素を足すなどしてより高度にしなければならない宿命でもあるのだろうか。それでは一見さんが寄り付かないだろう。
 (その点、任天堂という会社は、現代でもそこのところをよく理解して作っていると思う)
 まあそれも、受け入れられる層に向けて作られているのならば、よかろう。積み重ねの上に構成されたものの妙味を堪能するほうが、原始的な「心地よい」という信号よりもより強力だろうから。
 
 しかし自分は、向き合うものはなるべくシンプルに原理が分かり、見通せるものを選んでとっていこうと思う。
 複雑になるほど誰にも分からなくなる。他人に理解もされないし、ふと気付くと自分が何をやっているのかさえ分からなくなる。
 そういう場合、のめり込んでいる時間ばかり浪費して、実のところ何も得ていないことがある。
 細部を目指して入り込んでいくことも愉しいけれど、自分は最初どこからこの道に入ったのか分からなくなることのないよう、気をつけたいと思っている。
 
 別の考え。
 お金を持っていることと、お金を持っていないこと。
 頭がいいことと、頭がよくないこと。
 品行方正であることと、品性下劣であること。
 人に優しいことと、人に優しくないこと。
 太っていることと、痩せていること。
 酒・たばこを飲むことと、そうしたものを摂らないこと。
 運動神経がいいことと、運動神経が悪いこと。
 そうした諸々の条件。
 これらは相互に何の関連性もないということが、やっと最近分かった。(薄々感づいてはいたけど)
 そうして考えると、その人を規定するものとは、その場で発せられる・なされる行動がどんなものか、ということだけなのだ。
 あらゆるバックボーン(背景情報)を抜きにして、その人がどのように生きようとしてその行動を選択したのか、その発現だけが全てである。それ以外は付帯情報に過ぎない。