土偶裸摩具羅 -Dogra Magra-

人生は死ぬまでの悪ふざけ

 先週の木曜日の稽古で痛めた左足の青あざがほぼ治り(あまり痛くなくなり)、右足首の打ち身の痛みも歩くのに支障がないくらいになったので、喜び勇んで歩いてきた。
 先週の土日はこの足の痛みが酷くて、出かけるのが億劫になるほどだった。
 
 ここ1週間前あたりからやけにインターネットの光回線が遅いので問い合わせたら、どうもこの使っている回線が混雑しているらしい。
 情報を寄せてくれた知人によると、プロバイダーとNTTとの共同回線は、特に回線が細いという。
 遅くてもいいけど、接続がしっかり確立して、ページをきちんと読み込んでくれないのはいけない。
 ということで、2.5Mbpsしか出ない光回線からADSLに替えることにした。
 
 最近、生き方について考えている。
 食い扶持を稼ぐための仕事には、無感情で取り組んでいい。仕事は人生ではない。賃金の多寡や拘束時間の長短はあれど、そこに折り合いがつけられるのであれば続ければいいだろう。
 それとは別に、では自分の過ごす生活はどのようにあるべきか。
 24時間から仕事に関する部分を純粋に差し引いてみて、残るのが自分の生活だ。
 そこを、東京で、この賃金で、この自由時間で過ごすことを選んで、自分はここにいる。
 それが規定のものであり、その考え方から自由になることはできないのか?
 当たり前にこのままだと思っている、思い込んでいるだけで、まったく別の生き方があるのではないか。
 そう思って、仕事から、住む場所から、すべて入れ替えることを検討している。
 もちろん、それが自分の見当違いの妄想で、実際にはひどく困難があるのかもしれない。
 なので、そのシミュレートができる体験のようなものに参加できるよう、手配している。
 おれがここで悶々と悩む必要など、もしかしたらまるで無いのかもしれないのだ。
 という話は、今のところ本当に誰にも話していないので、ここを読んでくれたあなたしか知らない。

【痛めた足の画像】
 空手の稽古で足を痛めた(2回目)。
 実は2週間前は右足がこの状態だったのだが、今回、同じようにぶつけたにもかかわらず左足だけこうなったのは、ひとえに右の蹴りが上達したということだ。(左の蹴りが下手だという事実には触れない)
 ジムでの筋トレと空手の稽古はそれなりに楽しくやっている。
 この年になって体格が変わっていくのはおもしろい。身長は変わらないんだけど。
 身長が変わらねーのに筋肉が付いたら体重が増えるんだよなあ。
追記:
 銭湯に入って刺激したのか、痛くて歩くのが辛い。
 しばらくしたらおさまるとは思っているけど、かなり黒くなっているので、ちょっとこわい。

 先月1か月の間で3回も、酸性泉に行った。

 おすすめは草津温泉
 遠くてもいいなら、釧路の川湯温泉
 それ以外にもひとつ行ってみたけど、泉質で言えば上の2つが最高だった。
 もうちょっと他にも行けるなら行こうと思っている。
 
 8月にはゲリラ豪雨で携帯電話が使えなくなり、一時的に代替機を用意する必要があった。
 そして先日、財布(硬貨を入れるタイプのやつ:ウォレットでなくパースのほう)を紛失してしまった。
 硬貨を都合良く収納できて、しかも取り出しやすい入れものなんて、財布以外にない。
 財布がなくなるというだけでも大変な不便を味わった。
 自分がいくら不必要なものを排除して生活しているといっても、たとえば生活必需品が突如なくなってしまえば、それだけで生活が立ち行かなくなる。
 ということを強く実感させられた。
 だから、冗長性を確保しておくということは、ある意味で重要だ。
 先日実家に帰ったときに、以前使っていた硬貨を入れる財布がしまってあったのを確認したばかりだったのだ。
 あれさえ持ってきておけば、こんな不便は感じなかったのだ。
 すぐに代替物は用意した。
 なくしたと思しき場所には、発見の際には知らせてくれるよう連絡もつけた。
 買い物のときには、いつも金額を整えて出すタイプだから、財布の中には1000円以上は入っていなかった……のだけれど。
 できればなくしたくはなかったよ。

その怒りは本当に必要なものだろうか?

最近、正義というものを疑っている。
正義は怒り(義憤)に結び付きやすいものだからだ。
ストレスコントロールを考えると、怒りという感情はできるだけ抱くべきではない。
いらぬ情報を受け取り、それにいちいちつっかかっていたのでは、体がもたない。

自分が普遍的だと信じている正義とは、今まで創作の中で得てきた、作劇の点から有効とされてきた単なる演出なのかもしれない。
それを美しいものだと思い込み、自分の中で反芻して強化してしまった結果がこの生きづらさだとすれば、それは考えを改めるべきだろう。

自分は、もういい加減気付いてもいい頃だろう。世の中が「正義」では割り切れないということに。
僕は、世界が汚くなっていってもいいと思うくらい、自分が汚れてしまってもいいのだ。
目を閉じて、少し離れてから考えよう。僕の思考は誰のものでもない。僕自身のものなのだと。

 ひとりで雑誌の内容を考えて、レイアウトを考えて、構築して、たまに印刷して、文章を考えて、打って、たまに印刷して、お金払って印刷して(してもらって)製本して(してもらって)、イベント予約して、当日会場で設営して、販売して……という作業が孤独だと、とてもつらい。
 いや、印刷製本からイベント予約して会場で売るのはいいんだ。
 そこまでの、おれひとりで内容を考えて本を作っていくのが大変。
 それにひきかえ、既に原稿がある状態で本を作っていくことの楽さよ。(おれの本制作業としての仕事のことだ)
 学生のときにレポートを作るのも大変だと思ったものだったけど、あれはほとんどが無の状態から作り上げるのではないからまだよかった。
 地獄……ではないかもしれないけど、〆切が決まっている状態で無から楼閣を築き上げていくってのは、なかなかにきつい。
 へーーーるーーーーぷ。hellp